『どうしたの?』
さわさわと流れる風が、全身から火照りを取る様に流れ、ともて気持ち良い。
確か今は―夏の匂いが漂う、5月の下旬だ。
頭上に広がる楠の葉が、かさかさと音を奏でている。
『ねえ・・・一騎』
目の前に居る友人は、ただ普通に、右手を俺へと差し伸べた。
友人の足元にあるラジオは、ザーザーとノイズを混じらせている。
『ん?』
首を傾げる俺に向かって、友人はただニコリと微笑んだ。
そして―差し伸べられた掌から、次々とエメラルド色の綺麗な結晶を出す。
すると、ラジオのノイズが何も無かったように消えて、変わりに、澄んだ声が聴こえた。
『あなたは、そこにいますか?』
―それは、目の前に居る友人の、声、だった。
第1章 −迷夢−
「・・・どうした、一騎。ぼーっとして」
いつも口数が少ない父親が俺に声を掛けて来たから、妙に驚いてしまって箸を落としてしまった。
・・・どうやら箸が止まっていたらしい。
そう思いつつも、俺は落としてしまった箸を拾い、自分で作った玉子焼きを口に運んだ。
「・・・なんだよ」
食卓に並ぶ品々を摘みながら、さっきから物珍しい目で見て来る父親に声を掛ける。
「いや・・・今日は雨でも降るかな、と・・・」
ああ、そうですかい。
「・・・今日は晴れるよ」と俺はそれだけ返して、自分の食べていた食器を重ね、台所へ持って行った。
少し歪な形をしている食器は、全て父親のお手製だ。
お世辞でも上手いとは言えない皿などの陶器を作るのが、俺の父親の仕事。
売れているのかどうかは正直言って・・・とても訊いて欲しくないのだが、今、生活出来ているから売れているのだろう。
「じゃ・・・学校行って来るよ」
ただそれだけ言って、俺は家を出た。
・・・雨が降る、と言われたから、なんとなく傘を持って行こうと思い、傘立から傘を取る。
登校途中で会った友人―春日井甲洋には、
「今日晴れるのに、傘か?」と言われ、少しむっと来たが、あえてなにも言わなかった。
案の定、その日の昼過ぎから雲行きが怪しくなり、家に帰る頃には土砂降りの雨になった。
「・・・なんか、むかつく」
そう呟いて、俺は傘を開け、帰ろうとして歩き出そうと一歩踏み出す。
その時、後から「一騎ー!」と思い切り呼ばれて、思わず振り返ってしまった。
「・・・総士」
息を切らしてやって来た幼馴染の―皆城総士は、はっきり言って、あまり会いたくなかった。
そんな俺の気も知らず、総士は俺が差している傘を指差す。
「ごめん、傘忘れてさ・・・。ちょっとそこまで、入れてくれないか?」
どうしても左目の疵に目が行ってしまうから、少し伏目がちになる。
「・・・駄目・・・か?」
おどおどとしている俺を急かすかのように、総士は言葉を紡いだ。
俺は慌てて、頭を縦に振る。
「いや・・・別に良いけど・・・」
「ああ、良かった」と総士は傘の中に入って来た。
総士とは、幼い頃からの友達だ。
何をする時も・・・俺の傍には総士が居て、総士の傍には・・・俺が居た。
いつも一緒だった。
でも―あの事件のせいで・・・俺たちは疎遠になってしまった。
・・・そう。
総士の左の目蓋から頬にかけてある一条の疵痕は―
「・・・ん?どうした、一騎。悩み事でもあるのか?」
また、ぼーっとしていたらしい。
取りあえず「悩み事」と訊かれたので、慌てて頭を横に振った。
「そうか。・・・なんか有ったら、黙ってないで僕に相談しろよ」
以外にあっさりと引き下がってくれたから、まあ良かった。
そう思いつつ、傘に当たる雨の音を聴きながら歩いて行く。
どこかで「そう容易く相談できない」と叫ぶ自分が、居た。
「久々だな・・・、こうやって2人で帰るのは」
そう言われたが、俺は何も言えずに、ただ歩いていた。
総士は別に気にせずに、言葉を繋げて行く。
「お前さ・・・昼から雨が降るって天気予報で言ってても、傘持ってこなくて―いつも僕が入れてあげてたよな」
クスリ、と笑う総士を横目で見ながら、俺は少し居心地の悪さを感じていた。
「あの頃は―毎日が楽しかったよな、一騎」
遠回しに・・・左目を返せと・・・言われたような気がして、俺は思わず総士を見てしまう。
総士の表情は普段と変わらず、ただ不思議そうに俺の視線を受け止めた。
「あの、さ・・・総士―」
おずおずと言い出した俺に、「あ」と総士は声を上げる。
「―ここまでで良いよ。ありがとう、一騎。また明日」
そう言って、総士は走って何処かへ行ってしまった。
走って行く総士の背中を見ると、罪悪感がふつふつと湧き上がってくる。
そして・・・自分に対しての嫌悪感も湧き上がってきた。
また―言えなかった。
それだけが、思考を支配していた。
「・・・ただいま」
父親の仕事場と一緒になっている玄関の戸を引き、母親の写真が入った写真立てに声を掛けた。
少しばかり前、「どうして母さんは死んだんだ?」と父親に訊いた事がある。
父親は―「俺のせいで死んだ」とただ一言だけ言って、あとは何も言わなかった。
どうしてだろう―。そう・・・何度も考えた。
だけど、考えても、考えても・・・その答えは見つからなかった。
「・・・」
ふぅ、と息を吐いて、靴を脱いで居間へ行く。
今何時だっけな、と考えながら台所に行って冷蔵庫を開けた。
「買い物は・・・行かなくていいか」
ある物でなんか夕飯作ろう。
そう思いながら、急須に茶葉を入れお湯を注ぎ、湯呑と茶菓子を持って居間に行く。
「・・・あ、雨漏り」
湯呑にお茶を注ぎつつ、畳に雨漏りの染みが出来ている所を見た。
ボール取って来なきゃな。
「・・・そう言えば父さん・・・何処行ったんだろ」
お茶を啜りながら、ふと思う。
溝口さんの所かな―と思い、帰りは遅くなるんだろうな、とも思った。
溝口さんは、俺の父親の古くからの知り合いで、母さんが死んだ時・・・その場に居たらしい。
その事を本人から聴いた時は「母さんが死んだのは事故だったから」と、そのまま片付けてしまった。
・・・あんまり深く訊きたく無かったのかも知れない。
次に会ったら、思い切って訊いてみよう。
そう、何度も思ったけど・・・結局訊けずに居る。
「はあ・・・」
なんで、俺はいつも弱虫なんだろう。
真実を知る事が・・・怖く思うんだろう。
あの時だって・・・俺は、あいつを置いて逃げてしまった。
自分の名を呼ばれて、怖くなって、それで・・・。
「・・・っ」
思い出すだけで、罪悪感と自分への嫌悪感が心に染み出して、ちくちくと心が痛くなる。
泣きたいのはあいつの方なのに、なのに、なんでいつも―俺が泣いてしまうんだろう。
あいつは・・・なんで泣かないんだろう。
今日の帰り道、お前は俺に「悩み事があるなら相談しろよ」って、言ったよな?
だけど・・・お前の方が・・・悩んでいるんじゃないか、総士・・・。
俺のせいで光を失ってしまった左目は、お前を苦しめるだけなのに。
「なんで、あの時・・・俺だって言わなかったんだよ・・・」
そう呟いて、俺は意識を深い闇へと押し込んだ。
孤独と言う名の、深い闇へ。
そして―また夢を見るんだ。
あの時の・・・友人の左目を奪った時の夢を。
『痛い・・・痛い、痛いよ・・・痛いよぉっ』
左目を手で抑えて、蹲る友人。
次々と、指の間から、掌から溢れ出る血は、手首を伝って、ぽたぽたと地面を真っ赤に染め上げて行く。
俺は、ただ、その光景を見ている事しか出来なかった。
『・・・あ・・・うあ・・・』
やっと口から出た言葉は、怯えたものばかり。
相手を嫌悪する、そんな言葉ばかりだった。
俺は、自分の両掌を見た。
掌は―今、目の前で激痛に苦しんでいる友人の血で真っ赤に染まっている。
『あ・・・いや・・・』
苦しんでいる友人に謝りもせずに、ふるふると横に頭を振る俺を、お前はどう思っていたんだろう。
その時は、そんな事も思わずに、ただ目に映る光景に目を背けたかった。
『一、騎』
不意に友人が立ち竦む俺を見上げ、俺の名を言う。
血で染まった手、目を背けたくなる程残酷な左目の跡。
『うぁ・・・ああ―』
その瞬間、俺は声を上げ、逃げ出した。
自分が負わせてしまった疵を見て、逃げてしまった。
大切な友人を置いて―逃げてしまった。
自分の愚かさを示す、あの時の夢。
自分の存在を否定する、あの時の夢。
俺は・・・ここに居てはならない存在なんだと・・・この夢を見た時、いつも思う。
ここから、居なくなりたい。
そう、思っていた。
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